川底に沈む石

現在の修善寺駅と対岸の横瀬を繋ぐ修善寺橋は、少し上流で本流の狩野川に大見川と修善寺川が合流し、水嵩を増す場所に位置します。あわせて、下田街道から伊豆東海岸に向かう伊東線との分岐地点にあり、伊豆の玄関口として古くから交通の要所です。

川幅約100メートルに掛かるこの橋には、人間の英知をかけた壮絶な歴史(人間模様?)が繰り広げられた様です。

ある時、鮎釣りをする友人から
「橋の下に、昔の橋の基礎みたいのがあるよ」
「脛くらいの深さのところに並んで見える」
こんな情報を入手しました。

もう居ても立ってもいられなくなった私は、早速長靴をはいて現場に向かいました。

当日は心地良い風が吹く小春日和でした。
川の水面が波立っていて、腰まで水に入り、顔を浸ける位にして探したのですが、どうしてもその様なものは発見できません。川の中を歩き回ったおかげで長靴ビチャビチャ。

「脛位って言ってたじゃん!無いよ、そんなの!」

撤退を余儀なくされた私、その後、こんな事もすっかり忘れていました。
しばらくして、別件で橋の下を歩く機会があり、ふと思い出して近寄ると・・・・・橋で出来た影の中に

いました・・・・いました・・・・
ひっそりと息を潜めるように 川底に沈む・・

幾度もの洪水が通過しても川底にとどまり、どうしてもここを渡らなければならない人間模様を映し続けてきた基礎石が・・・・・

岩盤を直径50cm程くり貫き、そこに20cm位の年輪がしっかりした質の良い丸太を据え、コンクリート状の骨材で根巻いています。
2つ並んだ柱幅は2軒(3.6M) 位でしょうか?
脇にも違う時代の橋脚の基礎があるようです。
横瀬の集落を大昔は「土手間々」と呼んだという資料を目にした事があります。
「間々」とは古語で崩れる様を表すものです。

安政6年(1859)に描かれた年貢の減免願いと思われるスケッチ画が現存しますが、修禅寺から下流の様子が正確に描かれています。
修善寺橋より50メートル程下流の川原から山裾までの田は「石砂入皆荒」として朱で塗られています。

横瀬の人々は、時々牙をむく狩野川の流れと、古くから向き合って来た事が想像できます。
しかし、渡らなければならない所は、どうしてでも渡らなければならないんです。
その場合の手段として、狩野川では、川面の穏やかな時をねらって渡る、船による「渡 し」が各地設けられていたようです。
明治の世になり、西洋からの文明が伝わっって来たことで世の中の大きな方向転換が起こります。
狩野川の各地にあった「渡し」も大規模な架構も可能とした技術により、橋に姿を変えます。

大仁の渡し 大 仁 ー 熊 坂 明治13年(1880)
加殿の渡し 柏久保 ー 加 殿 明治17年(1884)
遠藤の渡し 立 野 ー 日 向 明治19年(1886)

明治10年代に・・割と早いと思いませんか?
しかも一気に!

現在の財政状況では考えられません。
それほど当時は「川を渡る」という行為に苦労していた人々の生活があった事が伺えます。
しかし、伊豆の要所である修善寺橋の架橋は、これより20年余り経過した 明治末期(1900頃?) 完成の木製の橋でした。

川底に沈む石はその頃の橋の遺構かと・・・・
その後も流失を繰り返した様で、中間2支点の鋼製橋梁が完成したのは、昭和2年 (1927)です。
3つの川が合流し流れを増す地点で、岸も高く、ちょうど100メートルある岸間への架橋は困難を極めた模様です。

下の写真は大きな橋桁を、堂々とした柱脚によって支える、昭和2年竣工の修善寺橋を写した写真ですが、まさかこの橋が崩壊する大惨事が起ころうとは誰もが思いもしなかったでしょう。
昭和33年(1958)9月に入り10日頃より雨が降り続き、17日台風21号が伊豆半島上陸、その後も秋雨前線の影響とグアム島、東海上で発生した台風22号により、伊豆半島に10日よりの半月で 1,000ミリを超える記録的な雨がふります。
25日夜半より強くなった雨は26日も降り続け、保水能力の限界に達した山々は崩壊を始める。
天城山系一帯では約 1,200 箇所の山腹、渓岸崩壊発生、多量の流木と共に狩野川を下った。
PS:うちの爺さん有名な筏場の山割れ、見物に出かけたみたいで、アルバムに生写真がありました。
これからは当時、修善寺町第一分団下部の団員だった古老から聞いた話を元に・・・
26日朝、召集がかかり、大雨の中、合羽を着て警備に当たった。

昼ごろより、雨風共に更に強くなり、屋外での警備は危険と判断し、一旦詰所に戻り仲間と花札などをして過ごした。
その間もラジオがしきりと大きく成長し、伊豆半島直撃を控えた台風への警戒を呼びかけていた。

夕方になり、辺りが暗くなりだした頃、台風はピークをむかえる。
古い木造の詰所は暴風で揺れ、雨漏りも数箇所発生、電気も消えてしまったが、蝋燭の火で、まだ札をやっている者がいる。

夜の8時頃になり巡回にすると、横瀬山より発生した大水で土砂や木々が用水に入り、各所で氾濫していた。それを可能な限りトビで取り除きながら廻り、修善寺橋のたもとまで来たとき、懐中電灯に照らし出された川面に、団員は言葉を失う。
賢固に作られた修善寺橋、その橋梁と橋脚に大量の流木が重なり合い、流れを関止め、橋の上流一体が見た事のない程の大きな水溜りと化していたのだ。
橋の上流と下流の高低差は 7〜8 メートルあろうか?

「修善寺橋が大変なことになっているぞ!」

川の上流を向けて明かりを当てると、明かりが届く限りは全て川面だ、大木が渦を巻き漂っている。
(溜まりは、現在建設中の縦貫道、大平の橋の辺りまで達したとの試算がある)
やがて、遂に橋の路面を水が走り出す。

駅前に向かって、タクシーがやっとの思いで通過したのを最後に、橋に非常線を張って通行を止めた。
水嵩はみるみる内に増し、手摺を越え始めた。

消防団の部長が、半ば怒鳴り声で「サイレンを鳴らしに行かせろ!」と叫ぶと、若い衆が全速で詰所まで走った。今ここで起きている事態を、何とかして下流の人々に知らせなければ・・

このサイレンの音に誘われて町中のサイレンが鳴り響く!
川側の菓子屋の伊藤さんがまだ避難していないぞ!

橋の袂で和菓子屋を開いて2年程しか経っていない若夫婦、奥さんがお腹が大きくて、旦那を消防団に誘おうと思っていた。店の扉を消防団員が2〜3人で行ってドンドン叩いて大声で叫んだが、台風に備えて扉に貫を打ち付けてあり、気づかない。団員は扉を叩いた感触が、今でも手に残っていると話しました。(このお菓子屋さんのご夫婦は家ごと流されてしまった)

そのうちにライトで照らし出された川面が大きく姿を変えた。
流れが横瀬の方に集まっている。

次の瞬間、今までに耳にした事の無い轟音を立て、橋梁が水しぶきと共にもんどり打った。
水溜りにポッカリ穴があき、橋脚が倒れてゆく、「もう駄目だ!」
消防団は、膝まで水に浸かりながら散っていった。
ここに消防団の命令系統の崩壊が起こったのだ。
部長がいくら大声を出しても、みんな背中を向け散っていった

自分の一番大切なものを目指して・・・・・

団員は家族がいる家を目指した、橋から50メートルしか離れていない、腰まで水があがっていた。
流れに押されるようにして進んだが、思ったところに行けない、何キロも濁流に押されたように感じた。
最後は泳ぐようにして家の裏手に回り込み、明かりが漏れる二階に梯子を掛けた。

一方、団員の家族たちは、前を走る国道に水が流れはじめたので、隣のうちと共同で土嚢などを積み防いでいた。

次第に食い止め切れなくなり、一階の床上に水の浸入を許していた。
「布団だけでいいから二階に上げろ」
お父さんの指示でみんなが動き、お母さんも手際よく、生活に必要なものだけを選び上げた。
隣の修理工場の家族もうちの二階に避難してきた。
「工場の機械も全部だめだ!修理代が掛かる」
「台所が水に浸かってしまった ご飯の支度はどうしよう」

大人たちは目の前で起こっている事実に対処するため、自身の心を落ち着かせようと努めた。
子供達はと言うと、隣の叔父さんも叔母さんも、子供達もみんな一緒寝るんだ!と言って蝋燭の中、狭い二階ではしゃいでいた。
そこへ、ずぶ濡れの息子(団員)が、2階の窓を蹴破って飛び込んできた。

「何やってるんだ!早く逃げろ!橋が落ちたぞ!」

最初、何の事だか解らなかったが、息子の必死な形相に押され、梯子で着の身着のまま家を離れ、裏山の高台に、昔からある古道を使って上がった。
すると、川側にあった新築したばかりの隣の家の修理工場が、建家ごと流されて行くのが見えた。
工場には、住み込みで働く若い衆が、
「おーい!おーい!おーい!」
若い衆は屋根の上でこっちに手を上げながら、5・6人で叫んでいた。

隣の叔父さんはその場にへたり込み、泣き崩れた。
手塩にかけ育てた、若い集と工場が・・
日が変わった頃、雲が晴れ、ポッカリと赤い大きな月が出たそうです。
月に照らされたどこまでも続く一面の川面を、避難した人達が力なく眺めていると、古道の方から若者の笑い声が聞こえてきた。

「おう! 清と誠一の声だ! 渡もいる」

叔父さん高台に上がってきた若い衆に抱きつき、頬ずりして、声を上げて泣いたそうです。
お母さん、この光景を終生忘れられないと言っていました。


実は団員、うちのおやじです。(昭和9年生まれ)
お父さん(明治40年生まれ)、お母さん(明治44年生まれ) 私の死んだ爺さん、婆さんです。
この修善寺橋の崩壊(9時50分)が鉄砲水となり下流域の村落を飲み込んでいった。

多くの避難者が収容されていた修善寺中学校が避難者もろとも流失した。

その後、牧の郷の沖野原をひと舐めし、さらに流れは大仁橋の護岸を削り、熊坂地区を濁流が襲い多数の死者を出した。
後に、伊豆半島に甚大な被害をもたらした22号を気象庁は「狩野川台風」と命名。

最終被害報告によると

死者・行方不明:1,269 名
住家の全・半壊・流出:16,743 戸
住家の床上・床下浸水:521,715 戸
旧修善寺町内だけで 死者・行方不明:464 名

翌朝、夜明けと共に人々は復興に向け動き出す。
しかし、目の前にある惨状はあまりにも酷すぎました。
橋も落ち、道も埋まり、辺り一面が石ころだらけの川原と化し、機械や道具も流されました。
それでも下を向いて必死に体を動かします。

それは戦後やっとの思いで築きかけたものを、是が非でも守り抜かねばならなかったから・・

残りの若い衆二人も昼過ぎにひょっこり帰ってきて、何もなかった様に片付けを手伝っていたそうです。
復興には近隣の市町村に住む方々の応援や消防団、自衛隊の力がとても大きかったそうです。

近くのの村々に住む親戚衆もみんな手を貸してくれました。

とてもありがたかった!何かあったら絶対お返しをしないと・・・・

これもうちの婆さん死ぬまで言ってました。
うちの実家です。爺さん働かないで監督してます。
隣の修理工場のおじさん、いち早く仕事場を建て直しました。
周りはまだ川原のままです。
よく見ると工場の外装、窓の位置が少し違います。
新築したばっかりの工場が流れてしまったんで、おそらく同じ設計図で建て直したのでしょう。

下の写真は狩野川台風前に建てた工場のお披露目写真
まさかこんなピカピカの工場が、新築して直ぐに、流れてしまったなんて・・・・

水害直後、工場を立て直して商売に備える
おじさんの商いに対する凄い気迫を感じます。

すごい!
この写真を見たとき、昭和のええじゃないかと思いました。
これは昭和35年(1960) 修善寺橋の完成式に参加した人々の様子です。

通称、修善寺橋の「馬鹿っ騒ぎ」特に呼び名がある訳でもなく、主催者がいる訳でもありません。
うちの爺さんや婆さんそう呼んでました。

うちの爺さん、一月も前から復興は若い衆にやらせて、隣のおじさんとこの計画ばかり練っていたそうです。
修善寺の大動脈?いや
修善寺の心臓?
とも呼べる、修善寺橋の完成です。

中間支点のないアーチ状の橋は、昭和35年(1960)4月2日 開通
 鋼重 32.937tf
 橋長 x 幅員 101.5×(6.5+2@1.5)m
 形式 下路2 ヒンジ補剛アーチ橋 設計施工 横川橋梁(株)
一度は無くし掛けたものを、取り戻す意思のシンボルとも言うべき橋の完成に、住民の心が沸き立った瞬間だったのでしょう。

正に、歴史が動いた瞬間映像です。
 (仮設橋と新しい橋のコラボは貴重です・・・・爺写)
私は狩野川台風からだいぶ経ってから生まれたのですが、小さい頃から聞かされていた、あの月夜の惨劇の事を、身をもって感じる機会がありました。

それは、あれから50年近く経過したある日のこと。
私は結婚をし、新たに親戚になった叔父さんが、船釣りに誘ってくれると連絡がありました。
叔父さんは、海の近くで修理工場を経営していました。
趣味で漁船を持っているとのことで、夕方、工場に来いと言われ出かけました。

とても口数の少ない人で、私を見ると何も言わずに歩き出し、船着場に行って船のエンジンをかけ「乗れ」と言われました。
内心、「怖そうな、おっさんと一緒で、つまらなそうだな~」と思いながら・・・

沖に行き、また何も言わずに漁具を渡され、イカ釣りをしました。
おじさん自分の持ってきたコンビニ袋から缶ビールを出すと、一気に飲み干しました。
すると少し口が滑り出してきて、こんなことを言い出しました。

俺は若い頃、お前の家の近くの修理工場で修行していて、狩野川台風の時に屋根に乗ったまんま流された。
次第に建屋は壊れ、仲間と散り散りになり、板っ切れにつかまってずーと流されてった。
もうダメかと思ったら、デカイ木が見えたんで、死ぬ気で泳いで行って大木にしがみついた。
濁流の中で死後の世界の様な夜を過ごした。
「朝になると御門の神社の所だったんで、修善寺まで歩いて帰ったよ!牛や人がたくさん浮いていたっけ」

「それって?あの話の向こう側?」

叔父さん、姪っ子の結婚が決まって、相手の素性がわかった時から、この事を伝えたくて仕方なかったみたいです。
なぜならば、あの夜が叔父さんの人生の中でも、強烈に心に刻まれた夜だったのでしょう。
私もうちで、当時、大分かったるくなって来ていた婆さんに話すと、にっこり微笑んでいました。

叔父さんも、婆さんも、もう亡くなりました。
残った叔父さんの船を見る度に思い出します。

船のエンジンの音とイカ釣りの明かりの中で聞いた話を・・・・・・

「川底に沈む石」はこれからも、ここを渡る人々の人間模様を写し続けるのでしょう。


以上、川の底の石ころで、ここまで引っ張ってしまい誠に申し訳ありませんでした。